■事務局ひとり言■


 
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初めてボウリングをしたのは、昭和45年である。場所は東京都目黒区内にあったメグロパ―クレ―ズ。建物は3階建で、広い駐車場があった。当時はボウリングブ―ムで、常に待ち時間があった。まだ暗いうちからの早朝ボウリングにも長い列が続いた。街頭の有線放送からは、「遠くのレジャ―より、近くのレジャ―。関東ボウリング場協会」というコマ―シャルがよく流れていた。時代はちょうど高度経済成長時代。アメリカから入ってきた新しい文化(レジャ―)に、大衆の人気が沸騰し独り占めした感があった。



メグロパ―クレ―ンズは、東京菱和自動車の社長だった野老寅之助(ところ・とらのすけ)氏が経営していた。そこで総支配人だった宇治田八郎氏が、後に創立された全指協(全国ボウリング指定競技場協議会=現在の全公協)の初代事務局長になった。わたしは、このボウリング場で宇治田さんと知り合いになり、後に事務局に誘われて、現在に至るのである。若かったわたしは、一回のボウリングで大体6〜10ゲ―ム投げた。料金は1ゲ―ム250円。投球フォ―ムは当時も今も我流でスコアは良くない。ある時、プロチャレンジで並木恵美子プロがやって来た。彼女はめっぽう強かった。そしてその投球フォ―ムは、投球時に片足を高く蹴りあげる。後ろで見ていると、蹴りあげた瞬間にスカ―トの間から下着がチラッと見えたりする。そう言う点でもボウリングは新鮮だった。

海辺の横顔 ピエール・カシニョール画
海辺の横顔 ピエール・カシニョール画

ボウリング場は最盛期には、全国に約3,700ヵ所(昭和47年末)あった。一つの市に複数のボウリング場があり、大多数の人がそこでボウリングを体験した。昭和48年のオイルショックを機にボウリング景気は反転。あれから40数年。現在は約920ヵ所である。大雑把に言って4分の3のボウリング場が転廃業したのである。メグロパクレ―ンズも昭和50年代はじめに閉鎖、跡地はマンションになった。思い起こしてみると、このボウリング場は、美術館のようだった。場内の壁には、レンブラント・ルオ―・カシニョ―ル(大作2点)・片岡球子などの有名画家の絵が飾られていた。また、レストランでは、美味しい洋食が食べられた。あの時代は庶民のユメのようなステ―ジが、ボウリング場だったのではあるまいか。

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