わたしのボウリング人生-1


第1回

ボウリングとの出会いと下積み修行編(宣伝活動と苦戦するマネージメント) 貝TB 社長 榎田勝志 氏

 今回は、わたしのボウリングとの関わりを紹介したいとのご依頼を頂き、30数年前の出来事をニヤニヤと思い浮かべながら記述して行こうと思っております。
まだまだ、ご依頼を頂きました、Kさんに比べればボウリング業界では、ひよっ子ですが、
現在までに勤務したボウリング場が8センター、直接運営で関わったボウリング場が
31センター、サポートをさせて頂いているボウリング場を合わせると60センターを超えます。
ありがたい事に、商圏人口1万8千人16レーンのセンターから1フロアー60レーンのセンター支配人をさせて頂く事ができ、様々な経験を致しました。
ボウリング業界に入る前は、まったく畑違いの関東電気工事外線部隊(東京)におり、毎日毎日、朝から暗くなるまで杉並区の電柱に登っておりました。
おかげで、いまは跡形もないのですが、身体は逆三角形の筋肉労働者。

 それが、訳あって故郷である熊本県天草に帰る事になり、毎朝9時半に職安(現在のハローワーク)に行き求人広告を確認し、それからパチンコ店に向かうという日課を送って居た頃、2ヶ月位たった頃だったと思いますが職安の係の方から呼び止められ、「毎日、来られてますね。この近くに新しくボウリング場が出来るけど興味はないですか?」と尋ねられた。
もう、パチンコ生活にも飽き飽きしていた頃で、まったく解らない業界ではあったが体力には自信があったので、何とかなるかと思い、取合えず面接に行き見習いとして採用になった。

 これが、わたしのボウリング人生の始まり。
1983年昭和58年11月22歳、現在の天草ボウリングセンターである。
余談ではあるが先代の社長が仲人で、いまだに恩をお返し出来ておりません。
この頃のボウリング業界は昭和の大ブームと平成ブームの狭間で決して良い時代ではありませんでした。



 まずは、ボウリング機材購入の関係で熊本市内にあったブウランズウィック直営の、大劇ボウル(現在のスポルト熊本)に、一ヶ月程研修に行くことになり、ボウリングいろはを習いました。
当時はレーンメンテマシンなどありませんでしたから、ロータリーマシンでのレーン&アプローチメンテ・A2マシンの整備調整・ドリル・フロント業務などの運営全般を教えて頂きました。
ご想像の通り、筋肉労働者だったわたしにとっては接客業務など絶対に出来ないと業界に入るつもりはなかったのですが、いまだに飲んだら良く昔話しますがボウリング場を仕事として選んだ一番の理由は単純な事で、何時でも用をたせると言うところです。
酒が好きなせいか、胃腸が弱く毎日数回トイレに行きます。
好きな時にトイレに行ける事は天国に思えたのです。
(もちろん、外線部隊のころは、お漏らししたことが数回ありました。)
研修は終えたものの、ボウリングの投げ方すら知らなかったわたしにとっては、悪戦苦闘の毎日でした。

 スタッフ全員がボウリング場勤務未経験者だった為、営業時間10:00〜24:00で朝から勤務し、閉店後にレーン・アプローチメンテを済ませ、マシン調整修理をして帰宅するのは、明け方になるのも珍しくありませんでした。
しかし、ボウリング場の運営状態と言えば素人の集まりですから、仕事が忙しい割には、採算が取れるような状態ではなく見通しが立たない状態だったことを覚えております。
新規オープンでしたので、建設に携わって頂いた会社・取引先企業に社内コンペ開催依頼をしたりし、大苦戦した事も鮮明に覚えております。
そこで、近頃田舎では見かけませんが、車の屋根に看板を乗せ宣伝カーを走らせ、企業への挨拶周りをはじめました。
これが、バカあたり。
記憶が確かであれば、年間ライネージ60ゲームオーバー!
夕方、18時には受付終了し、24:00までフル回転。
従業員5〜6人態勢で、フル勤務だった事を覚えております。
この経験が、やはり、ボウリング場(装置産業&接客サービス業)は、宣伝+渉外活動だと身体に刷り込まれたのだと思います。
それから、忙しい毎日を2年程過ごした頃には、A2マシンには本当に悩まされましたが、なんとなく、メンテナンス・メカ・ドリル・インストラクション・フロント業務・事務業務・渉外活動を身に着けていたような気がします。



 そんな頃、ある日B社長(現在の会長)に呼ばれ、わたしの実家近く(牛深)にあるボウリング場を借り、リニューアルオープンしたいので、支配人として行ってくれと辞令。
この時、24歳。
この時も、まだまだ身体は逆三角形を保っておりましたので、体力には自信があるので深く考えないで即答でお引き受けしました。
今は、営業してないようですが、当時の名称「牛深シーサイドボウル」です。
しかし、これが違った意味で大苦戦。
当時、牛深市(現在の天草市牛深町)は、約1万8千人の人口で16レーン、山のふもとに立っているひと気のない古ぼけたボウリング場でした。

 そのころ次女が生まれたばかりだったのですが、母子家庭と言われるほど会社に寝泊まりし、昼間は渉外活動、夕方からはセンター業務と休みなく動き、営業成績は前センターを上回る程の利益を出していた記憶があります。
当時の会長が自慢していたのを覚えております。
渉外活動と言っても小さな町ですから、大きな企業と言っての、市役所・漁協・農協・市民病院と言った感じで、企業コンペ渉外活動も2〜3日で終わってしまう状況でした。
この頃の渉外活動の目的は、会社対抗や職種別チーム対抗の出場チームを集める為のものでした。
これが、意外と集まり大会に参加するために練習、そして小規模ではありますが職場単位でのコンペへと発展し成功しました。
しかし、大苦戦したのはマネージメント力。
人に使われる経験はあったのですが、筋肉労働者であったわたしが24歳でいきなり支配人です。
何もかも自分でやるのが早いので人を育てる事が出来なく苦悩の日々を過ごし、スタッフも大変だったと思います。
そして、自分で決断したのは、また人の下で学び直すのが一番の早道ではないかと判断し、社長には大変申し訳なったのですが会社を退社。
そして、次のボウリング場での新たな勉強が始まりました。

 次回は、渉外活動でのコンペ開発編をご紹介させて頂きます。

前の「記事」へ戻る 「ボグ交差点99」へ 次の「記事」へ進む

 全国ボウリング公認競技場協議会「トップページ」へ  「ボグ交差点・目次」へ