わたしのボウリング人生-4

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コンペ開発挫折と苦渋の決断LTB開発着手編 (どうせやるなら新たな新規顧客開発LTBシステム)  貝TB 社長 榎田勝志 氏

いよいよ、好調なボウリング人生に陰りが。
わたしのボウリング人生で、ここまでは担当したセンターは、渉外活動で30%UP出来ると確信していた。
しかし、そうは甘くなかった。
勤めたセンター、天草ボウリングセンター、牛深シーサイドボウル、ビッグウェイボウルと業績が上がり、そしてブランズスポルト熊本は、駐車場はないが繁華街型好立地であった為、少し工夫するだけで売上が急激にあがり、どんなセンターでもドル箱センターに出来ると思いあがっていた。
1996年・平成8年、平成ブームの終わり頃にブランズウィック直営センターとして1年前に新設オープンしていた、京都府下の綴喜郡田辺町(現在の京田辺市)ブランズウィックスポルト新田辺支配人の辞令を頂いた。


↑当時の外観                 ↑当時の入口

BSG始まって以来の失敗センターで初年度億単位の赤字となっていた。
事前にM専務より相談を受け、思いあがっていた小員は近鉄新田辺駅前2〜3分の立地でもあった為「大丈夫です。何とかします。」と安請け合いをしてしまった。
(現在のステーションボウル新田辺で弊社契約先である)
ここで、わたしのボウリング人生始まって以来の大苦戦の日々が続く。
愚痴にはなるが、いま思えば前任支配人のいい加減な管理の為、センター内が腐敗していたのを修正するだけでも大きな浪費であった。
早速、自信満々に渉外活動をスタートしたが、何と数日で回りきってしまった。
結果から言うと、渉外先が無いのである。
1番大きな企業と言えば、市役所(企業ではないか)、農協、明治乳業(約60人)、そして隣の駅の近くで丘と言うか山の上にある、同志社大学で当時は1~2回生のキャンパス。
そのほかは、良く言う「父ちゃん、母ちゃん商売」で3〜4人の企業ばかり。
予約コンペ獲得の為、渉外活動に回ろうと思っても回る先がないのである。
同志社に行っては、ビラ配り(飴とチケットセット)を通学時間にあわせて定期的に行っていたが、隣の駅でいつも同志社生は3〜4回生がある京都市内今出川キャンパスまで素通り、街頭活動も抜本的な売上改善には至らなかった。
その頃、別件でLTBのスペシャリスト、すみ光保プロと出合いましたが、ボウリング教室や会員制度など大嫌いで極言ですが会員さんに3〜4万円のボール1個売るより、コンペ1コ取る仕事を選ぶ性分であった為、話は食い違いばかりでした。
しかし、このボウリング場で何人ものスタッフの生活を支えており、そして取引先に迷惑をかける事になる、潰さない為には、どうしたら良いのか悩んだ結果、普通の人なら悩む事ではないのだろうが、おバカだった。
そして、気付いた事は“売上を変えるには自分が変わる事だ”プライドや見栄を張らないで変な固定観念を捨て固定客(リーグ)を作るしかないと決断した。
スタッフからは、榎田さんは自分の方針を変えるのですか、らしくないとか言われ批判を受けた。
じゃ〜どうやって、リーグ開発をする?!
その頃のボウリング教室は10人位を集めて、プロが後ろで腕を組みながら、チンタラチンタラやっているのが多かった。
これでは、何年経っても売上改善出来ない!
もっと多くの人を集めてボウリングの楽しさを伝えられる教室からリーグ化出来ないのか考えた。
どうせ、やるなら新たな新規顧客を開発出来るシステムを作り上げよう!
そうだ、ボウリング場主催だから集まらないのだ!
行政(公の)主催の教室だったら絶対集まるだろうと考え、早速地域の体育協会へ出向いたが門前払い。営利企業に名前を貸してくれる訳がない。
そこで、色々おバカな頭で考えた?!
公的な団体を立ち上げて体育協会に加盟しよう。
現在の京田辺市ボウリング連盟である。
まずは、説明会を行い、同志を募り署名活動、そして市に嘆願。
当時、体育協会会長は市長さんが兼任されており、行政も初めての出来事にビックリしていた。
しかし、全ての署名者が市民であり有権者である。
そして、3か月後に京田辺市社会体育協会へ加入の認可を頂く。
京都府市町村の体育協会へボウリング競技で加盟したのは初であった。
そして、京田辺市体育協会主催ボウリング連盟主管でのボウリング教室開催にたどり着いた。
しかし、第1回目の教室を開催するまで、様々な障害があり決断してから1年が過ぎていた。
時間がかかり過ぎた。
今なら一ヶ月でやってしまうが、時間がかかったおかげで、やってはいけない事、やらなければいけない事が良く理解でした。

いよいよ、第1回目の募集告知!京田辺市社協発行の広報紙のみの募集。
なんと、1クラスのみ定員30名募集が2日間で定員オーバー。





欲をかき、クラス増設を申し出たが簡単に却下されたが、レーンの関係上42名が最大収容人数だったので、42名までは増やすことを了解頂いた。
キャンセル待ち続出! もったいない。
さて良く考えたら、教室や会員制度大嫌いな体質だったのでボウリング教室などなった事なかった。
どうしよう?!
そうだ、小林万修プロにお願いしよう!
役員であった、小林プロが毎週京都まで来れる訳がなかった。
しかし、一番大事な1週目だけ応援して頂ける事になった。
では、2週目以降どうしようか考えた。
受講者名簿を良く調べると、団塊世代の方ばかりで男性は定年された方が中心。
このまま、ボウリングだけを教えてもクラブリーグに移行しないだろうと考え、ボウリングを続ける事で得られる物を提供出来ないかと思い立った。
その日から、毎日図書館通いでスポーツ医学(スポーツで健康促進)とウォーキング・ジョギング・水泳・卓球・バレーなどの本を読みあさった。
そして、ボウリングと比較し教材(配布資料)を作り上げた。
今のLTBシステムの原点。
この頃は、すみプロが作った5週編に健康講話をプラスして行っていた。
結果、初回で移行率95%超え!





これだ、これに間違いないと思った瞬間であった。
その後、約3年で300人強のクラブリーグが出来た。
実技は教え過ぎないよう注意し、ボウリングをする事によって得られる物を説いていった。
そして、綾小路きみまろのカセットテープ、CD、ビデオテープを見て楽しさの中にワンポイント毒舌を折込んだ講話、実技より笑優先のボウリング教室となった。
最近、その頃の生徒さんとセンターを訪問した時にお会いした。
皆さんから、先生久しぶりです!お元気ですか?!今日はどうなさったのですか?!
あの頃とは違って快適なボウリング場ではなくなりました!
どうにかして下さいと言い寄られた。
しかし、そんな不快な環境の中でも沢山の卒業生がクラブリーグを続けて参加されているのを見て感激した。
本当にボウリングは素晴らしい!
そして、また天狗になった自分であった(^_^;)
次回は、さらなるLTB開発とコンペ開発となります。

※わたしにとっては恩師でありボウリングに携わってからは父親的存在であった、すみ光保プロとは、会う度にボウリングについて口論をしました。
怒らせた事も何度かありました。
その、すみ光保プロが4月6日に永眠されました。
亡くなられる三日前にご子息より危篤の連絡を受け、翌日お見舞いに名大病院へ駆けつけましたが、既に昏睡状態でした。



数か月前にお会いした時は、とても元気で講習会の後に食事に誘われ、いつか榎田君と一緒に講習会やりたいなぁ〜とお話しを頂いていたので、ぜひお願いしますとお話しした事を思い出し、涙が止まりませんでした。
鷲見さんの手を握り、ありがとうございます、ありがとうございます、と繰り返すことしか出来ませんでした。
そして、三日後の早朝に鷲見さんの奥様から連絡を頂きました。
いまの日本におけるLTBがあるのも、すみ光保プロの功績と思っております。
これからも、すみ光保プロの意志を少しでも引き続けられるよう頑張って行きたいと思っております。
鷲見さん、本当にありがとうございました。

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